宇宙のきらめき

宇宙目線で地球暮らしを楽しむコツを紹介

ウィンナーって?☆ドイツのソーセージ

ただの、豆知識ですwww

日本語では、多くの人が、(ウィンナーソーセージを略して)「ソーセージ」という代わりに「ウィンナー」と呼んでいるらしい。

ウィンナーはドイツ語でWiener(ヴィナー)、「ウィーンの」という意味。
ソーセージは単数ではWurstと言う。

さて、
ドイツで、ソーセージスタンドなどで売っているものは、大方はThüringer(テューリンゲン州の)なのだけれど、これが、こういう見た目

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Bratwurst(焼きソーセージ)といえばこれ(Wikiの写真)

とにかく太い。焼いて食べる。
※これは日本には確か売ってないと思う(一本が日本人には既に大き過ぎるからかなw)

Wienerは、こういう感じ

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(同じくWiki だけど、調理されてない)

細くて長い。そして、伝統的には茹でて食べる。
※これも日本の商品ではこの長さのは無いと思う。

つまり
焼きソーセージ(=テューリンゲン州の)と言われて、ヴィナー(ウィンナー)は想像しない。それは、全く別のもの。

だから
日本語で、焼きソーセージに「ウィンナー」と書いてあるのを見て、私の頭は2周先の宇宙へ行って帰ってくる作業をする…

そして着地

   ウィンナー = ソーセージ って事なんだねっ!

と、確認。

「フランスで、フランスパンください!」って言っても伝わらないのと同じで、ドイツ語圏で、「ウィンナーください!」と言っても伝わらないので、ご注意を♪

ちなみに、ドイツには「すし・ライス」が売ってるよ!これは、酢飯ではなく、寿司を作る用の米って意味!これも、日本で「すしライスください!」って言っても伝わらないね!笑

補足


予備知識として、他に有名なところでは、
ニューンベルク市のニューンベルクソーセージ:
これはサイズが日本のソーセージに近いが、ハーブがいっぱい入っている。

バイエルン州の白ソーセージ:

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これも伝統的には茹でて、外皮を剥いて食べる。

とは言え、Wienerも白ソーセージも焼きたければ焼けば良いと私は思うけど!
ちなみに、私は日本のスパゲティ・ナポリタンが食べたくなった時には、Wiener Wurstを切って焼いて入れます。
(白ソーセージはさすがに焼いたことはない)
しかし、あのスパゲティを日本ではなぜ、ナポリタンと呼ぶの?
誰かご存じの方は教えてください♪

旅行記★ベオグラード/セルビア

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44か国目 セルビア
ショー(仕事)と旅行で世界中行ってるけれど、国数としてはそんなに行ってないな・・・と数えて改て思った(苦笑)そもそも、仕事では、フランス・オランダ・ベルギーの色々なにダントツで行っているが、国単位で数えれば、同じ国に行ってるので、カウントは上がらない。とはいえ、仕事で世界旅を始めたので、自分で選ぶわけでもなく…そもそも私は数を数えることにあまり興味ないからいっか(笑)

コソボ紛争以来、近隣国からの嫌われ者、セルビア。
昨日の記事に書いた通り、私にはこの民族紛争というのが、全く受け入れられない。
とはいえ、その背景とは別に、住んでいる人達はすごく親切だった。
首都のベオグラードでさえ、英語が通じないのは少し驚きだったけど。

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都心部には、当時のNATOによる爆撃の後が残されている。彼らがコソボでしたことを考えたら、まあ・・・と私は思うけど。

街の雰囲気

私がすごく好きだったのは、街の小さな道のあちこちにカフェがあり、地元の人たちがアルコールを楽しんでいる。

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勿論、旧市街の最も観光客っぽいところは、美しくて風情もあるけれど、私にはこういう地元民が楽しんでいる場所の方が落ち着く。

食事

さてご飯。私は、どこの国であろうが、日本人の旅ブログでまずはリサーチする。だって、日本人の食への拘りってすごい!!!
何せ、食べ物目当てで旅行をする人たちだ!!!これ、ドイツ人には、絶対ない精神!ブラボー!
…しかし、時々、難しいのは、彼らは不必要に払ってしまうところがある。
今回も、「ん?セルビアだよ?なぜ食事がそんなに高い?」と参考にはならなかった。残念。

借りている部屋に着いて(改装されて清潔感のある、広いアパートで、しかも安かった!)、水を買いにいくスーパーをGoogle Mapで探した。すると、すぐそこに新しくてモダンな建物のマーケットがあった。そこの最上階にスーパーマーケットが入っていた。
(面白い見た目の建物だったけど、写真撮り忘れました。ここ↓です)

中に入ると、ワインの店、バー、アジア料理店などが、その場で食べられるお店があって、そのうちの一つが、肉屋!!!!!!!
肉が売られているだけでなく、テーブルについて食べることができる!

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300gで10€程度!!
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トリュフがけフレンチフライ

ドイツの私の住む地域では、牛肉は脂肪部分を食べないので(南ドイツに行けば別)、硬くて美味しくない。しかも、調理の仕方を知らないから、もうパッサパサ、獣臭い・・なのに高いという経験がありまくって、一切食べなくなった。しかし、さすが肉食の国!(チェバブチチとか) 肉の調理を知っている!
しかも、ここはセルビア、つまり、ユーロ換算すれば、安い!
地ビールを飲んで(どの店にも、なぜかオランダのハイネケンがやたらおいてあったけど)、満足!

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かんけいな関係ないけど、スーパーのミルクのデザインがキャワキャワで、お気に入り♪

セルビア正教会

この国は、所謂オーソドックス教会が主。

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聖マルコ
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マルコ教会

中に入ると、すっごく熱心な訪問者たちは、イコンにキスをして真剣に祈っている。
私はクリスチャンでしたが、やめたので(ドイツでは、クリスチャンは教会税を払わなければならない。苦笑)、というか、最近は、宇宙は自分の中にあって、神とは自分の中に居るものなのだと思っているので、この熱心に何かを信仰する人たちが不思議に見えてしまうのだけれど、幼少期から世界平和と地球環境保護を夕暮れに毎日祈っていた私は、自分の外に自分を救ってくれる何かが居る方が、ワクワクするし、気が楽だということも知っているので、こんなに信仰に熱心になれる人たちは、なにか愛おしいとも思った。
あのコロナの騒ぎから数年、イコンに口づけするのは危険とされてないのも凄いなとも思ったけど…

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これまた別の教会。結婚式中(失礼!)
オーソドックスはとにかく、どこの国でもきらびやか

カフェ・デザイン

旅行に出れば、ドイツでは見つけられないものに感動する。
それは ①接客の人たちの愛想よさ ②カフェやレストランのデザイン ③食べ物の美味しさ

セルビアでも、カフェはそれぞれ個性的なデザインで可愛かった。
インテリアデザインというものがほぼ存在しないドイツでは(ブルー割―などの伝統的な雰囲気以外)見れないので、ついつい写真をバチバチ取りたくなる。お店の人はそんな私に怯えながら、簡単な英語で、しかし親切に対応してくれた。

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モダンな街並み

夕方になると、地元の若者があつまる場所がある。そこは、バーやクラブが手狭に立ち並ぶ駐車場。すっごくお洒落だった。旧市街の隣。

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これは昼間の写真。夜はライトがついて雰囲気がグッとあがるが、私のへなちょこカメラでは、何も映らなかったw
どう考えてもイギリスまたはアイルランド人でしょ?という英語の発音のお姉さんが、気さくにサービスをしてくれた。私の好きなラテン音楽がかかっていたので、ここにした。
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こちらは、駐車場から少し離れたところにあるカフェ。
この雰囲気(外)も大好きだった。
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暑かったので、レモネードを。まあまあだった(笑)

名物料理

先に述べた、チェバブチチ。
Walterという大手のチェーン店でも食べられるが、私はたまたま泊まっていたアパートの近くにあったこの店

が好きだった。とにかく、安い、量が多い、ウマい。

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地元のコーヒー。いわゆるトルココーヒーね。

観光地

一応ちょっとは見たけど、要塞とか、ほんと、興味ないw

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サヴァ川とドナウ川の分岐点があるよ
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古いトラム
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都市開発

川沿いが都市開発され、大きなビルが作られている。
ちょうど、私が行った2か月後に、たまたま私が一緒に働いているイタリアのショーグループが、ここでベルグラードオペラシアターの開幕のイベントでショーをやったので、なんか、運命感じつつも痛い気持ちになった(爆)

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ショッピングモール
ドイツにはないデザインっぷりで、「日本みたーーーい!」って言い続けたw

コミュニケーション

とにかく私の住む街は国際的で、ドイツ人見つけられないくらい(言い過ぎw)色んな国の人が混ざってるので、英語がなかなか通じない、そして文化が一つしか存在しない首都が不思議な感じでした。
文化(コミュニケーションや振る舞いという意味で)が一つといえば、日本もそうだったと思うけど、もう長らく日本に行けてないので、今は変わったのかな?

ベオグラードではバスのチケットの購入システムが今春から変わったそうで、SMSで買えというが、携帯がヨーロッパ契約ではないセルビアで使えるはずもなく…昔はキオスクで売ってたというので、キオスクのおばちゃんたちに声をかけるも、売ってる店と売ってない店がある。運転手から買えと言われたが、今は売ってないからキオスクで買えと答える運転手(笑)
ここは、私の第六感で(笑)売っているキオスクを発見、良くわからんがラテン語に似ている言葉を聞き取って、バス停を見つけ空港に向かうも、空港は階段の下まで列。列でもない列が進み、やっと入口についたところで、今日はこの航空会社のチケットはQRコードは使えないから、階下のカウンターで紙のチケットに変えてこいと言われ、「変えたらここに戻ってきてもいいよね?」と顔を売って、長蛇の列のカウンターも、空いている特別カウンターにずかずか行ってチケットをゲットし、列でもない列の人たちをかき分けてスキップし、無事に帰りの飛行機に乗れました。
自分が気分よく、皆にも気分よく、楽しいコミュニケーションで修羅場は乗り切る!これ、よく知らない国へ行くときの生き方!(やってはいけない国もあるので、そこはチェックしてね!)

最後に

読んで戴き、ありがとうございます。
ぼちぼちと世界旅のレポートもしてみます。(殆ど仕事で行っているので、観光できず写真がありませんが・・・)

【ヨーロッパ】
ポルトガル, スペイン, フランス, モナコ, イタリア, スイス, ドイツ, ベルギー, オランダ, イギリス, アイルランド, アイスランド, オーストリア, チェコ, スロバキア, ブルガリア, ポーランド, ハンガリー, ルーマニア, クロアチア, モンテネグロ, ボスニアヘルツェゴビナ, アルバニア, ギリシャ, リトアニア, ラトビア, マルタ, バチカン市国, トルコ, デンマーク, ルクセンブルク, 北マケドニア, コソボ, セルビア

【アジア】
日本, 台湾, シンガポール,

【中東】アラブ首長国連邦

【アメリカ】
チリ, パナマ, カナダ, アメリカ(ハワイを含む)

【オセアニア】
オーストラリア1

【アフリカ】
モロッコ

夢を叶えるということ

皆さんには、叶えたい願望がありますか?
人生には、小さいことから大きいことまで願望だらけだと思うのですが、だからこそ叶っても気づかないのかも?!と思ったので、ここに記します。

私はいつも、自分の仕事(世界中で歌う)が夢のような仕事で、私は本当にラッキーだと思っているのですが、

実は、私はそれを夢見たことがなかった

なぜなら、こういう仕事があるという事を想像さえ出来てなかったから。
で、頭の中にも存在さえしなかった事をどうやって手に入れたのだろう?とよく考えこんでいました(←暇にもほどがある

♪ 夢のような仕事をゲットした経緯

そもそもは、私はフリーランスのパフォーマーなので、隣の隣の国ベルギ―でオープンコールのオーディションがあるのを見つけたから、フラっと受けに行きました。(蓋を開けると、ベルギー在住の人ばかりで、フラマン語が分からずオーディションに参加したのは、私だけでした。)
オーディションから数か月経って、私はそのシアターに呼ばれました。たまたまドイツの私の住んでいる街の近くでショーをするので、リハーサルに参加しないかと。
着いてド肝を抜かれた!
そこには、クレーンがあり、ダンサーたちが宙吊りで踊っている。私は高所恐怖症の気があるので、見ているだけで怖かったのですが、
ボスが、「ちょっと飛んでみる?」と。「やってみない手はない!」と思い、私は、ダイレクトにクレーンに吊り下げられました。最初は5m、10mと少しずつ。20mほどのところで、「調子はどう?」と聞かれ、「私、ピーターパンみたいじゃない?!」って答えました。つまり、全然怖くなかった。
そのまま、その夜から、ショーに出演することになりました。

それから数週間後、ボスからメッセージが来ました。
「11月と12月に台湾で公演がある。それにあなたを選んだから」と。

そもそもオーディション前にチェックしたのは作品がどんな感じかということだけで、空中ショーだということも知らなかったし、世界中で公演するのだということも知らなかった。(それでオーディション受けに行った。バカなの私?)

♪ 私が抱いていた願望①

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これが初めてのショー。空中で歌って居る様子。

さて、私はそもそも旅行があまり好きではなく(笑)、しかも高いところが怖かったのですが。

最近気づいたのです。

     私、子供の頃から空を飛ぶのが夢だったな・・・

大人になっても、睡眠中に見る夢の中で最高のものは、空を飛ぶ夢です。
それで、気づいたのは、ああ、私は、空を飛んでいるじゃないか?

♪ 私が抱いていた願望②

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2015年には、日本の静岡でもショーをやりました。
日本に行けて嬉しかった------♡

私は大学で声楽(オペラ)を学びました。
子供の頃から歌は大好きだったけれど、大学で声楽を習い、私はこのオペラというのがどうも好きになれず…でも、負けず嫌いだったし(笑)、世界的スター歌手の歌声は、人間と思えないほど素晴らしかった。
だから、大学に通う時に電車の中から見える海に

     世界の歌手になりたい

と心の中でつぶやいていました。
ただ、オペラ歌唱が好きではなかったので、どういう風にという具体的なイメージはなかったのですが。

それにしても、旅行が好きじゃないとか言っていた私が、世界中どこへでも出かけて行って歌を歌って居る。そして、寧ろ、それが無いともう淋しい。
つまり、世界の歌手をやっているじゃないか?

♪ どんな形で叶うかを知らなかったというだけ

つまり、なんとなく大それた願いをぼんやりと持っていて、だから、それと現実が繋がってるのに気づいたのは、この仕事を始めて10年目の今日この頃。
ずーっと、なんとな~くで生きて来たので、これからちょっと『大人になったら(苦笑)何がしたいか』をちゃんと考えてみます。 

 

宇宙少女の歴史 3

(ドイツの自宅から見える空)

新しく知り合った人たちから、私の人生について知りたいと言われることがよくある。
まぁ、直接の知り合いでもない人たち(このブログを読む人たち)が、どれほど他人である私に興味あるのかは分からないけれど、日本で産まれて育ったにも関わらず、日本社会とは全く別の宇宙に生き続けて(苦笑)、そのままヨーロッパ発信で、世界を旅しては歌を歌うという職業をしているなんて、ちょっと珍しいと言えば、珍しいだろう。なので、シリーズにして書いてみようと思う。

ここまでの歴史

white-hole.hatenablog.com

 

国内国際社会
そんなこんなで、大学生活はほぼ、外国人と苦楽を共にした。
ハンガリーからの留学生は私に、日本では個性が大切ではないから、あなたはヨーロッパに住むべきだとずっと諭されたが、私には飛行機に怖くて乗れないという難題があった。

CA未遂事件
声楽にはあくまでも興味が無かった。しかし、歌を歌うのが好きだったので、出来ればJazz歌手になりたい…とか思いつつ、しかし、日本でJazzって?と想像がつかず…卒業してから何をするか、わからなかった。
そんな時、(既出の)変わり者の母が、CAになって欲しいと言い出した。
私が飛行機に怖くて乗れないのを承知の上で(笑)
またの無茶振りだが、私はCAの競争率の高さを知っていたので、受けるだけ受けて落ちれば、問題ないと思い、訓練学校に応募した。

すると、全国で3人の特待生で受かった…
理由は知っている。私は170cmと背が高いからだろうと予想する(苦笑)
母に、「いや、飛行機怖くて乗れないから!」と言い、CAは諦める承諾を経て、訓練学校に断りの電話をして、こっぴどく怒られた。(勿論である)

将来は未知数
他にも外国の絵画を輸入する会社の入社試験も受けた。これも受かったが、日本では必ず、「まずは外回り」という時代だった。母が、あなたの様な身体の弱さで、それが出来るはずないと言った。(いや、CAも相当キツイと思うのだが)
母が私の健康を気遣うなんて、怪奇現象。と言う事は、なぜかこの仕事をしてはいけないのだろうと思い、晴れて、将来を「?」という空白を残して、卒業。
※後に母が手術で入院となり、私は母の代わりに家事をやらなくてはいけなくなり、「就職もせず、よくぞ融通の効く立場で居てくれた」と感謝された。母に褒められたのは、今のところ、これ一度きり!

オペラ歌手!
Jazz歌手に憧れつつ、大学の最後に、図書館を使えるという特権を最後に使わないと!と、DVDを見まくった。
うちの大学には、大きな画面とサウンドタワーの置いてある大きな個室があり、そこで床にゴロゴロしながらDVDが見れた。ちょっとした「私の」リビングルーム気分だった。
そこで、マリアカラスの生涯を描いた映画を見た。そこで、

 

その声に驚いた

 

いや、声楽を学ぶ人は誰もが知っているマリアカラスを、学部4回生でやっと聴いたんかーい!と皆に突っ込まれるが、私はそれほど声楽の声質に興味が無かった。
そして、なんだこれは?楽器みたいじゃないか?
私はとにかく超人的な事が好き。なぜなら、それが宇宙の真理にたどり着ける道だから。

 

そして、私は、大学卒業後、オペラ団体の研修所の試験を受けた。

 

今日はここまで!

宇宙少女の歴史 2

(ドイツの自宅から見える空)

新しく知り合った人たちから、私の人生について知りたいと言われることがよくある。
まぁ、直接の知り合いでもない人たち(このブログを読む人たち)が、どれほど他人である私に興味あるのかは分からないけれど、日本で産まれて育ったにも関わらず、日本社会とは全く別の宇宙に生き続けて(苦笑)、そのままヨーロッパ発信で、世界を旅しては歌を歌うという職業をしているなんて、ちょっと珍しいと言えば、珍しいだろう。なので、シリーズにして書いてみようと思う。

理数科時代

幼稚園、小学校、中学校と、先生という名前のついたエゴを隠せない大人達の作る社会的教育の場に苦しみ抜き、病欠を繰り返したのちに入った高校は、やっと心地よい場所だった。
先生達は、苗字をさんづけで呼んでくれる。これだけでも、やっと軍隊から抜け出した気分だった。

理数科は、クラスの殆どが男子で、少し居る女子も論理的で、これも非常に楽だった。彼らは何も干渉してこないし、特に共感を求めてこなかったから。
高校に入ってからは、私はまた私の個性を認めてもらうことができ、私は「宇宙の真理の探究」に目覚めた。子供の頃から知りたかった、私は、なぜ地球に住んでいるのか?また、地球とは何か?この世は本当に存在しているのか?を探った。

師範大学

私は大学に行きたくはなく、出来れば海外に移住したいと思っていた。が、根本的に飛行機が怖くて乗れない私だった。
が、先述の変わり者の母が、何も決めてないなら国立大学へ行けと言った。
従う以外に、考えが浮かばなかったので、国立のどこかの大学へ行くことにした。しかし、特に勉強したくなかったので、2次試験が一発芸の音楽科に行こうと大学を探したら、東京藝術大学を除いては、教育学部以外に音楽科が無い。

…。

私が幼児期から苦手だった、社会的な大人たち=教師。
それを育てる学校とな…。
 
私には自分に対する嫌悪感しか湧かなかった。

しかし、背に腹は変えられない。もう11月だ!私は、慌てて歌を始めた(ピアノは毎日8時間練習してる人たちが受けるので間に合わない。歌なら歌えばいいだけなんだ!と思った。知らないという事は愚かだが、時々役に立つ!)
せめて師範大学ではない大学の教育学部に行こうと(家から近いし)、前期試験を受けたが、こちらは受からなかった。
そして後期で国立の師範大学に受かった。私は、皆も私の様な動機でこの大学に来たのだろうと信じていたので、殆どの人が学校の先生になりたいと言っていて驚いた。
そして、やはり社会的な考えの人ばかりで、皆良い人ばかりだったけれど、話が通じなかった。

音楽も、それまで私がやってきた音楽をする人が一人もおらず…音程もリズムも楽譜通りで正しいが、魂が共鳴する事が無かった。まるで棒読みで無表情の芝居を見ているようだった。
ところが、あちら側(先生達も同級生たち)も私の音楽の方を「間違い」と言った。
私の側からすれば、機械の様に聞こえてくるこれは一体何なのだ?!と思ったが、彼らにとっては私の音楽が「間違い」となる。
そもそも音楽において「正解」や「間違い」という表現が、私には理解できない。
それで、もうここには居られないと思い、1回生の夏休み母に辞めたいと言った。
そうすると、もう後期の授業料を払いこんだと言われたので、渋々、とりあえず後期はまた大学に行くことにした。

外国人寮

音楽棟のトイレで手を洗っていたら、一人のシンガポール人の女性が私のネクタイを褒めた。私が、「ありがとう!」と言ったら、彼女は「あら!あなたは日本人なのに、ガイジンに話しかけられても逃げないの?話をしてくれたのはアナタが初めて!」と言った。

私の中学・高校の英語の成績はすこぶる悪かった。数学は男子を差し置いて学年で1番だったが、英語はいつも下のクラスに入れられた。
しかし、私は、あまり気にしてなかった。というか、もう6年もしっかり習ったんだから、出来ないはずがないと思っていた(笑)

それから、彼女は、私を彼女が住む、大学の留学生寮に招いた。そこには、各大陸からの留学生が居た。殆どが、既に自国で学校の先生をしているが、休職して支援を受けて日本の大学に新しい教育論を学びに来ているので、私より随分年上だった。私が、キッチンに座っていると、皆がぞろぞろやってきた。「やっと日本人と話が出来る!」
聞くと、皆もう2年以上住んでいるが(まずは外国語大学で日本語を1年半習ってから、専門の大学に行く)、日本人の友人は一人も出来なかったと言う。
それで、そこから私は、彼女らと友達になり、私のなけなしの英語で、日本と日本語について語った。
結局大学4年間、私は、大方の時間を留学生と過ごした。
その時に、気づいたのは、だから私は第一志望の大学に落ちたのだと言う事だった。
あの日本の大学ランキングで上の方に鎮座する大学に行っていたら、留学生と毎日を過ごすという事はできなかっただろう。(それ以前に、私の大学よりもさらに音楽の実技が無いらしい。私の大学では、それでも、卒業論文の代わりに、歌の実技で卒業できた)
私は、自分が師範大学へ行くことが本当に許せなかったし、恥に感じたので…未だに大学名は言いたくないのだけれど…それでも、私には結局、私に最良の道が与えられているのだと知った。

今日はここまで!

宇宙少女の歴史 1

(ドイツの自宅から見える空)

新しく知り合った人たちから、私の人生について知りたいと言われることがよくある。
まぁ、直接の知り合いでもない人たち(このブログを読む人たち)が、どれほど他人である私に興味あるのかは分からないけれど、日本で産まれて育ったにも関わらず、日本社会とは全く別の宇宙に生き続けて(苦笑)、そのままヨーロッパ発信で、世界を旅しては歌を歌うという職業をしているなんて、ちょっと珍しいと言えば、珍しいだろう。なので、シリーズにして書いてみようと思う。

宇宙人という自覚

私は、日本の、ごく普通の家庭に降り立った。
ところが、2,3歳くらいの時、この世のシステム(社会的システムやルール、信号・お金・仕事など)に疑問を持った。そもそも、地球が球体であるという事をどう理解すべきかが分からず、私はこの惑星(地球)は、私の居るべきところではないと思った。それから、空を見て、本当の家族が雲の上から迎えに来るのを待った。
私には、珍しいセンスがあった。トランプをすればジョーカーがどこにあるかわかったし、サイコロは振る前に数字が分かった。簡単に言えば、透視と予知だろうか。
ある時、私以外の人に問題があると、私は夕方ベランダに出て祈った。すると、いつも翌日には解決したので、これは効力があるのだと知り、それで、私は毎夕方、ベランダでお祈りすることにした。
「私の幸せは自分でなんとかしますから、世界が平和でありますように、地球(自然)が守られますように」
これを毎日唱えた(ので、今でも覚えている)。
それで、私は、自分の特殊能力を自分に使わず、他人の為にしか使ってはいけないと思い込み、透視も予知も“しない努力”をした。
※今でも、「他人のためだけに使う」は守っている。

幼児の同僚

空を見るだけの毎日。母は、「おとなしいから家に居させても楽だ」と思ったらしく、幼稚園に行かせなかったが、5歳の秋に、このままだとこの子には友達が居ないままだ!という事に気づき、幼稚園に途中入園させた(今思えば母が相当変わっている!笑)。前に一度、面接に来たので、私は自分の教室を覚えていた。だから10月の登園初日には、母に幼稚園の門で、「見送りはここまでで良い」と言ったのを覚えている。
そして初日、ショックだったのを覚えている。
他の同クラスの皆さんが、やたらに幼稚だった。そして特に、絵が、簡易だった。
性根の良い人たちばかりで、私は皆さんの事が好きだったが、しかしとにかく、やたらと子供っぽい。
そして、先生たちが、やたらとエゴをむき出しにして園児を扱う。特に、私が年長になった時、理事長の嫁の年配の女性が私のクラスの先生だったが、彼女のエゴ満載のクラス運営に、私は「先生というのも所詮、人間でしかない」と思ったのをハッキリと覚えている。
これを今になって、他の友人に話しても、幼児期に同じ考えを持っていた人は結構居る。
そして参ったのは、PTA会長の娘が、お遊戯の主役から、合唱の指揮から、ピアノまで全部やる。
が、彼女のピアノのレベルは低く、コードⅠ(ドミソ)しか知らなかった。
卒園式には、
♪いーつの ことーだかー 思い出してごーらんー
をドミソだけで最後まで歌わされるのだ。これは、もう私の絶対音感の耳にはたまらなく辛かった。
私は、母に家で苦情を言った。母は、PTA会長の娘だから、他に方法はないんだと教えてくれ、私は、幼稚園卒園前に、社会に所属することへの難しさを痛感した。
そんなだから、そこから、義務教育を終えるまで、本人が辛いというだけでなく、大人にも全然可愛がられないという人生が続いた。

教育

話はちょっと逸れるが、これで分かったことがある。
きっと子供にはいくつかのタイプがある。が、ここで注目するのは、この2つのタイプ:
①     自我の目覚めがなく、「子供」として幼少期を過ごす
②     私と同じ様に、子供扱い(簡単な事しかやらせてもらえない事)に物足りなさを感じて暮らす
私は、ドイツのバレエ学校で子供にクラスを教えているが、他の講師のクラスを見て、遊んでるだけじゃないか…と思うことが結構ある。しかし、これは、その講師自身の子供時代が①だったんだと、今は理解できる。(彼らには子供は習うより遊ぶという経験が大切と思っているということ)
つまり、②のタイプの子供は、私のクラスに来て、どんどん難しい事を習えばいいし、①のタイプの子は遊びのクラスに行けばよいので、これはこれで、バリエーションがあるのは、子供に選ぶ余地があって良いと思う。
ただ、難しいのは、親が、わが子に①を望むが、子供自身は②のタイプ。
そういう親には、私はハッキリと、私のクラスを辞めるように言う(他の先生のクラスに行くことを勧める。)これは、その子が可哀そうというだけではなく、他の②のタイプの、じゃんじゃん学びたい子たちにも可哀そうだからだ。(実際、子供から他の子供に苦情が出る)
子供は、大人が思い描く子供とは実はちょっと違うのだ。

習い事

私は2歳でピアノを始めた。さすがにこの歳でピアノは、手が軽すぎて音が鳴らなかったので、鍵盤と言った方が正確だ。経緯は、2歳年上の姉を、母がピアノに連れて行ったが、姉には根気がなく、私の方が向いているだろうとスカウトされた。
幼稚園でも、小学校でも、身体が弱く、運動が出来ず(鈍かった)、それでほぼ友達と遊びたくなかった私は、毎日、窓から雲を数時間眺めて、時計の分針の動きを間近で観察して、そして作曲する。あとは、唯一の友達であるぬいぐるみたち(30体近くいた)の世話が忙しく、それプラス、公園に架空の動物を飼っていた。割と忙しかった(笑)
年長の時に、テレビでバトントワリングを見て、母に「これをやりたい!」と言ったら、日本舞踊の先生のところに連れていかれ、そこから数年、着物を着て、車でお師匠さんの自宅へ通い、日舞を習った。(母が相当変わっている!笑)

理数系少女

父がマシンエンジニアだった。姉が算数がすこぶる苦手で、夏休みには、父による姉への特訓があった。私は、姉を護るつもりで、父による2年上の算数の授業に参加した。
私にとっては、音楽と算数は同じだった。音も数字も、自然であり、空中で踊っている(動いている)。
この経験で、中学になっても、公式を使わずに、答えを出す事をいつも考えたので、高校は迷いなく理数科に行った。
この、公式を使わないというのは、社会のシステム(ルール)を疑問を持たず受け入れることはしないのと同じことだ。
公式とは違うが、例えば、小学校で、分数の割り算を習う時、「後ろにある数字の分母と分子をひっくり返してかけましょう」と習った。
さて、どういう理由でひっくり返すのだ??私は、これを同級生に上手く説明する方法を頼まれてもいないのに(苦笑)探して見つけ出した。それによって、宇宙(自然)の真理が分かるからだ。
そして、それを見つければ、自分の星に還れると思っていた・・・

今日はここまで!

私がブログを書く理由

私がブログを書く理由

自己紹介を兼ねて、私がブログを書く理由を紹介したい。

大まかな目次は、①3歳の時から宇宙の真理を求めてきた ②歌やバレエの生徒・生徒の親から、私の世界観を聞きたいと求められる ③ドイツに住んでいて日本が遠い

私はフリーランスの声楽家(歌手)とダンサーとして、ベルギー・フランス・イタリアなどのインターナショナルシアターと共に世界中で公演をしている傍ら、居住のあるドイツの街でバレエ講師・声楽講師としても働いている。

  • 宇宙の真理を求めて -地球の社会に違和感を持った少女-

(写真は筆者本人。ドイツのケルンにて、月と空を飛びながら、オペラアリアを歌っている様子)

皆さんは、ご自分の幼少期を覚えているだろうか?

私は、2歳から鍵盤(ピアノ)を習い始めた。なので、2歳の時の記憶がある。

その頃、この世のシステムが自分にしっくりこなかった。例えば信号。青で渡り、赤で止まる。誰が決めたのだろう?私のお婆さんやお爺さんでもない、どこの誰かしらない人が作った決まりを、私に守れと押し付けてくる。これは何なのだろうか?

そもそも地球が丸いという事を、どう理解して良いのかに手こずった。

そして、私は、ここが私の星ではないと感じ、自分の家族を本当の家族では無いと思った。私は空の上に私の星の家族がおり、いつか迎えに来ると信じていた。(あ、一応、私の地球の親の名誉の為に(笑)…彼らは、至って普通に私を大切に育ててくれました)

でも、故郷の星の家族は、さっさとは迎えに来ず(苦笑)、その後、地球の決まりや、その圧倒的な決まりを信じ込んでいる人たちに手こずる暮らしが続いた。

それで、私は宇宙の真理が知りたいと思った。地球で私が見聞きする事(人間が些細な事でアタフタしている)よりも、宇宙には大切な事があると思ったからだ。

ちなみに、私はジャンケンしたら、相手が何を出すか知ってたし、ババ抜きしたら、ジョーカーがどこに有るかが見えるし、サイコロは振る前に何が出るかわかっていた。(だから、姉は勿論、私とするトランプ遊びの神経衰弱をつまらないと言った)

ある時に、夕方ベランダに出て他人の事を祈れば、翌日にはすぐ叶うという事を知った。なので、私は毎日、夕方にベランダに出て、「私の幸せは自分で何とかしますから、世界の平和が守られますように、自然が守られますように」とお祈りをした。

それから、私は自分の力は他人の為に使わなくてはならないと思い、ゲームで勝たない努力をし(読まない努力をし)、人の痛みを取るなどの事だけの為に自分の力を利用した(だから、今でも整体や気を送る事で人の痛みは取れますが、他の事でも透視が出来るかは知りません)

さて、私の父はエンジニアだったので、父から数学を学び、私は理数科へ行った。数学と音楽は同じで、踊りと力学は同じ。これは、今でも私の頭の中の世界と繋がっている。

  • 人に説く -私の頭の中の世界を知りたい人たちが居てくれる―

そういう変な子供だったので、私の人生においては、私を好きな人はとことん好き、そうでない人はとことん嫌った。お分かりのように、前者は自分も「社会」から解放されたいと思う人達で、後者は「社会」の中に居る事が好きな人という訳である。

だから、歌を教えていて、またはバレエを教えていて、私の世界観(宇宙の真理)についてもっと話を聞きたいという生徒やその親が居る。

私は、自分が子供の時からの記憶があるので、子供が何を感じているかが理解できる。だから、社会的決まりによって、子供時代の頭の中の記憶が消えた大人は、私が理解している子供の目線を、親として、知りたいと思うのは当然なのだろう。

ただ、私は歌も、技術を教えるのが得意な先生なので、講義中には、技術を教える事しかしないと言い切っている(笑)

  • 遠い日本 -テレパシーは届かない距離―

ちなみに、私の世界観は、私のパフォーマンス(特に歌)を通じては、言葉による説明なしで、直接、人の脳に伝わるらしい(私と周波数の合う観客談)。これは、言語も何も要らず、つまり、誤解もなく、とても便利である。

ところが、私はドイツに住んでいる。この十数年の間で、私の所属するインターナショナルシアターと日本に公演に行ったのは、たったの1回…。なかなか日本を訪ねてパフォーマンスをする機会に恵まれない。

だから、私の生れ育った日本の人達とも(言葉という融通の利かないものを使って、どこまで説明を出来るのかという難点はあるものの)、私の頭の中にある宇宙の真理を伝えたいと思い、日本語でブログを書くことにした。