宇宙のきらめき

宇宙目線で地球暮らしを楽しむコツを紹介

あなたが世界の創造主🌎🪐⭐👽

あなたが世界の創造主

私が10年働いているベルギーのアントワープに拠点のあるインターナショナルシアターの、一つの作品の最後の公演が2023年9月1日にあった。この作品は2017年7月に、アントワープに住み、クリエーションから一緒にやった、私にとっては思い出深い作品。装置が壮大過ぎて(笑)、テクニカル面、安全面の難しさと、そしてショーをやるのに膨大なお金がかかるので、この10月からシアターのリーダーが変わるのを機に、残念ながらこれにて最後となった。コロナ以前は、ベルギーの3つの都市と、ドイツ、イギリス、ルーマニア、オランダで上演された。そしてコロナ後は、2022年の8月にロシアのモスクワとサンクトペタスブルグでの上演が決まっていたにも関わらず、例の侵攻で中止が決まった。ということで、2019年の夏以来、実に4年ぶりの上演、そしてこれが最後の上演となった。


  • 蚊の居ない世界 

ドイツの私の自宅からアントワープまでは、車で3時間。そう遠くはないのだけれど、翌朝の集合が朝10時だったので、前日の夜に行って、同僚の家に泊まった。スペイン人の同僚が、彼の出身地域から買ってきたチョリソーやハムやチーズ、手作りのトルティーヤで迎えてくれ、楽しい食事をした。

 

(スペインの食べ物は美味しい!)

その後、私は客用のソファーベッドで寝始めた・・・1時間程経った辺りで、蚊が私を起こす。

私はヒスタミンが上がりやすい体質なので、虫刺されにやたら敏感。それで、嫌な気持ちになると同時に、まずは、あの、プーンプーンという音が私を起こす。

眠れない・・・・

私は身体と耳に虫よけジェルを塗り、蚊の嫌いなハーブの匂いで自分の身体を包んだが、1時間もするとまたプーンプーン。その上、既に何か所か刺されていて、痒くて眠ろうにも眠れない。

朝5時・・・あと2時間半しか眠れないじゃないか!と思った時に、

「いや、私が蚊がここに居る世界を自分で創っているんだってば!」という事に気づいた。

私の自宅のあるドイツの街には蚊がいない。それで、アントワープには蚊が居る事を知っているので、すごくナーバスになっていた私。今年は、アントワープの8月は結構寒かったから(上がっても25度程度)、蚊が居ない確率の方が高かったにも関わらず、私は自分が「蚊が居たら嫌だな」を頭の中で繰り返していた事に今更気づいた。

それで、

「蚊が居ない世界を創ればいいんだ!」

ただそう思ったら、もう蚊は私の睡眠を邪魔しなくなった。

 

  • 雨のある世界

アントワープは前日は真夏のように晴れていた。しかし、公演当日は朝から雨…

私は、雨除けポンチョを着て、裸足靴を履いて、同僚の家を出て、そこから徒歩たった3分のトラム乗り場へ。それだけで、既にずぶ濡れで不快だった。

会場について、ミーティング。その間も、濡れた身体が寒い。午前中は雨だということで、ミーティング後も、私はノロノロと準備をしていた(笑)

午後になって、天気予報通り、雨は止み、私たちは機嫌良くリハーサルを始めた。

(私たちのショーは、クレーンを使う空中ショーのため、屋外で行われる。)

ディナーを食べて、化粧をするまで少し時間があった。外はすっかり美しく晴れて、皆で芝生の上で少しダラダラしていた。

午前中の雨が嘘のようで、すっかり夏が戻ってきた。

(ショーをしたパーク)

 

  • ショータイム!

夜8時半、ショーが始まった。私は、観客の間を歌いながら歩く。もうすかっり今朝の雨の事さえ忘れていた。

15分後、私が作品の中で1番に宙を飛ぶ。私は安全装置を付け、プレートの上にスタンバイ。音楽が流れて、歌いながら空中へ。すると、

 

           シャワー―――――――

 

瀧のような雨とはこの事!私は空中で、シャワーの中で歌い続ける。目に雨が入る。痛くはなかったが、何も見えない。目をシバシバさせて、雨を目の外に出しながら歌った。メイクをしているので、さすがに擦れない。

それにしても、なんというタイミング!私が歌って居るのは、〈ラ・ヨローナ〉というメキシコの哀しい女性の曲(泣く女という意味)

後で聞くと、雨の中で歌う私の姿は幻想的だったらしい(笑) ←天然の演出

(ばっちり写真に写るほどの雨の中で空中浮遊しながら歌って居る様子)

 

空中から地上に降りて、今度は自転車に移動。自転車の上の小さなステージに立って歌う。

スタンバイしていると、雨は一瞬止まったものの、未だ目にポタポタと雨が入る。あ、そっか、前髪!と思って、前髪を雑巾のように絞った。さっきの空中と違って、観客に近いので、目をシバシバさせながら歌うのは、結構な滑稽さだな・・と思ったから。前髪を絞って、視界が確保できるようになった瞬間、また雨が始まった・・・またもや、結構な量で、ボタボタと雨の音が聞こえる。

 

  • 雨の無い世界

私は、ちょっとまたガッカリした。

それと同時に、傘を差しながら空中を見上げる観客も気の毒だし、雨が酷すぎて公演が続けられない可能性もちょっと頭を過った。

その時、昨日の蚊の居ない世界を思い出した。それで、「雨のある世界を私が作ってるんだ!」と気づき、頭の中で、「止む」と空に言った。

即座に雨は止まり、音楽は流れて、私のバイクは動き出し、私は観客の中に進み、歌い始めた。

その後は、もう雨は一滴も降らなかった。 

(雨無しのラストシーンの様子)

 

余談だが、私は、15年くらい前に伊勢神宮を友人と散歩した時の事を思い出した。

その日も雨だった。土砂降りではなかったが、友人と私はやはり傘をさして歩いていた。

私たちは、空の話をしていた。私は、「雲で見えないだけで、太陽はいつも私たちの上にいるんだよ。今は・・・あそこに」と、太陽のある場所を指さした。その瞬間、太陽が雲から顔を出し、大きな光が私たちを照らした。友人は勿論、「怖い」と言った(笑)

 

  • 自分で世界を創る

私は雨も好きだ。今年の6月、ドイツの私の街は夏日が続き、1か月の間、一滴も雨が降らなかった。それで、ライン川は干上がって、細くなって行く。7月には南フランスやイタリア・スペイン…熱い国では森林火災で地球温暖化を感じずにいられない。

8月に入って、雨が続き、街の緑はどんどん成長した。大地が喜んでいるのが目に見える。

私の寝室は屋根裏にあるので、ベッドに横たわっていると、雨が屋根や窓に当たる音が聞こえる。目を閉じれば、雨の下に自分が居ることが確かめられて、なんとも恵み深い地球の上に暮らしている事を感じられる。

 

だから、雨が降っているのも、濡れて気持ち悪いのも、それを受け入れている。私の止んで欲しいとか、濡れたくないとかいう小さな願望に別にフォーカスをしていなかった。

だけど、この世は、無意識に自分がずっと創っているとどこかで知っている。普段は目の前の事物に振り回されていると思って生きているが、火事場の馬鹿力のように、ふと、自分が私の世界を創っているのだという事を思い出せることがある。

なので、地球暮らしを楽しむ宇宙人メンバーの皆さんで、今、“どうしようもない事”で頭を抱えている人が居れば、本当はあなたが自分で選べるのだという事を思い出してほしいと、この話をここにシェアする。

パラレルワールド

パラレルワールド

友人でも知り合いでも、考え方が合わないことに気づいて、関わりを失くしてサッパリしはずなのに、あの時にあの人に言われた事が頻繁に思い出されて、イライラする。もう関わらないので、言い返すことも出来ない…こんなモヤモヤを不必要に抱えてはいないだろうか?

今日は、そんな地球暮らし宇宙人メンバーへ向けてのお話。

 ◆ 意見の相違  -一件の例- ◆

コロナのロックダウン時に、陰謀論に夢中になった知人がいた。彼女は、コロナなんて存在しないのに、一部のそれにより利がある人が嘘をついていると信じ込んでいた。勿論、それも有り得なくもないも話だ。

しかし、私の考えではそもそも、自分がこの目で見たこと以外は存在していないので、つまり、そのコロナも、一部の利がある人たちも、どちらも存在していない。

例えば、どこかの国の大統領が、毎日ニュースで話題になろうが、CGで作られた写真や映像かも知れず、その実在かどうかわからない人物が、私の今にとってどれほど重要だろうか?

極論を言うと、私は何も信じていない。前にも後にもなにもない。確かにあるのは、私の今の気持ちだけだ。

私は彼女にそれを説明したが、彼女は、私が彼女の意見を否定していると言い始めた。「否定はしていないよ、賛同していないというだけで」と何度も説明したが、なぜ私は政府を未だ信じているのかという愚問とともに、私を不快にするだけの、感情任せの支離滅裂な長文が送られてきた。

結局、その後も、私が彼女の意見に賛同するまでは、なんとかして私が「間違った考えを持った人」なのだと分からせようという攻撃らしきものは続いたので、私はもう知り合いではなくなることを決めた。

しかし、支離滅裂で論理的ではない、私を侮辱しているともとれる言葉が、時々頭によみがえった。

時間と労力の無駄だと思うのに、またよみがえってくる。さてどうしたものか・・。


 ◆ パラレルワールド -自分で住む世界を選ぶことができる― ◆

世界と世界の交わり

私は、急に気がついた。


彼女は、嘘をつく政治家の居る世界を選んだ。

そして、私は、そもそも政治家さえ存在していない世界を選んでいる。

私の選んだ世界と、他の人が選んだそれぞれの世界が交わる時がある。簡単に想像しやすい地球上の言葉を使うと「出逢い」だ。

そして、それがしっくりくると、交わった部分はそのままに、私は私の世界で生きている。

しかし、それがしっくりこないなら、それはもう別の世界(別の惑星と想像した方が簡単かもしれない)で生きている。

つまりは、私が彼女の不快な言葉を思い出して、あの時のやりとりに紋々とするという堂々巡りを続けていれば、私はやはり、嘘をつく政治家の居る彼女の選んだ世界に一緒に住んでいるのだ。

危ない!私たちが気を付けなければならないことは、他の世界を選択した人を自分の念頭に置くことは、つまり、その人の選択した世界に引きずりこまれるという事だ。

 

 ◆ 反対派と賛成派は同じ世界 -有か無かの視点― ◆

私は、政治や国家という統治に賛成でも反対でもない。

多くの人が誤解しているのは、反対(アンチ)は、それを改善しようとか、無くそうとしていると信じているが、反対するということは、既にその存在を認めている。

私は、そもそも、統治が存在してい無い世界を選んだので、政治家の誰かがおかしなことをしていようが、戦争を始めようが、それは他の人の選んだ世界で起こっている出来事であって、私の選んだ世界では存在していない。

自分が得ている情報を全部本当だと信じている人には、私の言う事を想像するのが難しいと思うかも知れない。

想像しやすいように説明すると、例えば、フェイスブックに架空の人物が無数に存在する。その架空の人からメッセージがやってくる。「私の遺産の1億円を受け取ってくれる人をさがしています」。プロフィールを見れば、名前は山田淑子。写真も一人の日本人であろうマダムが写っている。それでも、あなたは、これが架空の人物、つまり実在しない人だと確信する。それと同じように、それがどんなに大きな報道機関のニュースであっても、どんな情報も、それが架空であると考えることもできる。

 

さて、コロナ。

統治が、世界規模で、こうしろああしろと言ってくる。

私が言っているのは、私が統治を信じていないからと言って、統治が出す規則を無視するという事ではない。

もし、私の大切な人(同じ世界に住んでいたい)と思う人が、コロナで不安だから会いたくないといえば、それを受け入れる。マスクをつけていたいと言えば、一緒にマスクをつける。または、私がマスクをつけた方が良いと自分で信じれば、マスクをつけて人に会う。

私は、予防接種を受けた。それは、ただ単に、予防接種を受けなければ、国境を越えられなかったからだ。世界がやっと公演を始めたとき、私の歌を聴きたい人が、私の歌を聴けるために。

私の住んでいる世界で、私の大切な人たちが、私にそれが必要だという。ならば、それを受け入れる。私にとって大切なのは、今目の前にあるものだ。合理的に淡々と自分で自分に必要なものを選択してやるだけだ。

 

コロナが存在しているかどうか、統治に賛成か反対か・・・そんなことは私たちが基準にするべきことではない。

コロナが有ったとしても無かったとしても、統治が正しかったとしても正しくなかったとしても、自分自身が一緒に住みたい人たちと、同じ世界に居られる方法を私たちは選ぶべきだ

 

 ◆ お別れは、別の宇宙に生きるという事 -無限に「この世」は存在している― ◆

さて、議題は戻って、もう関わらないと決めたはずの人が、自分の念頭にまだ存在し、ストレスになるとき、

自分がどの世界を選んだか、しっかり確認し、自分が選んでいない世界に引きずり込まれないようにする

 

私たちは、引きずり込まれることを避けなければ、自分の選んだ世界に還れない事を一番恐れなければならない

 

その人はその人の選んだ世界に生きている。これは除外ではなく、その人の意思への敬意である。同じ世界に住もうとするから、ある意味での否定が生まれる。

その人は確かに生きている。別のどこかの世界で。でも、私の世界にはもう存在していない。

 

そもそもどうして私たちは、どうしても自分とは合わないはずの他人までもを理解する事の方が得が高い(寛容性がある)と思い込まされているのだろうか? わざわざ同じ世界に住んで議論して不快になることはない。自分の選んだ世界に私たちは、住める権利がある(というか、実はそれしかない)のだ。

 

 

 ◆ 最後に…子供たちの事 -子供たちは自覚ある宇宙人- ◆

協調性の無い子、わがままな子など存在しない。(大人も)
その子たちは、その子の選択する世界に純粋に生きている。

実は、私たちは全員、宇宙人として、一人で地球にやってきて、自分が選び続ける世界の真ん中にずっと一人で暮らしている。


だから、皆がこうするのに、それをしない子は自分勝手だと言って強制しようとするのは、自分が選んだ世界を生きろと子供に押し付けていることになる。

ただ、そんな選び続けた世界の真ん中で生きている私たちが学ばなければならないのは、他の世界の人と自分の世界が交わった時に、他の人の選んだ世界を一緒に経験してみることは、自分の選んだ世界を失うという事ではないという事。
つまり、他人の経験を一緒に経験してみても、自分のアイデンティティは失わない。

それが、地球の新米である子供に、地球のベテランである大人が教えられることだと、私は思う。

そうすれば、子供たちは、他人の個性を尊重しながら、自分の個性を以て生きることができる。

 

宇宙人のみなさまへ

 

私たちは皆、宇宙人👽です

ずっと宇宙を旅しています

 

今このブログを読んでいる人は、おそらく、地球に立ち寄って、数年をここで過ごしている途中でしょう。

 

地球暮らしは、割と情報量が多いので、すっかり、地球人の気分になって、自分が宇宙人であることを忘れていないでしょうか?

私たちは、あくまでも、旅の途中で、この地球暮らしは、楽しむためにあります♪

 

すっかりそれを忘れて、地球暮らしを楽しめないという宇宙人の皆様に、別の宇宙人である私が、宇宙目線の話をここでしたいと思います。