宇宙のきらめき

宇宙目線で地球暮らしを楽しむコツを紹介

パラレルワールド

パラレルワールド

友人でも知り合いでも、考え方が合わないことに気づいて、関わりを失くしてサッパリしはずなのに、あの時にあの人に言われた事が頻繁に思い出されて、イライラする。もう関わらないので、言い返すことも出来ない…こんなモヤモヤを不必要に抱えてはいないだろうか?

今日は、そんな地球暮らし宇宙人メンバーへ向けてのお話。

 ◆ 意見の相違  -一件の例- ◆

コロナのロックダウン時に、陰謀論に夢中になった知人がいた。彼女は、コロナなんて存在しないのに、一部のそれにより利がある人が嘘をついていると信じ込んでいた。勿論、それも有り得なくもないも話だ。

しかし、私の考えではそもそも、自分がこの目で見たこと以外は存在していないので、つまり、そのコロナも、一部の利がある人たちも、どちらも存在していない。

例えば、どこかの国の大統領が、毎日ニュースで話題になろうが、CGで作られた写真や映像かも知れず、その実在かどうかわからない人物が、私の今にとってどれほど重要だろうか?

極論を言うと、私は何も信じていない。前にも後にもなにもない。確かにあるのは、私の今の気持ちだけだ。

私は彼女にそれを説明したが、彼女は、私が彼女の意見を否定していると言い始めた。「否定はしていないよ、賛同していないというだけで」と何度も説明したが、なぜ私は政府を未だ信じているのかという愚問とともに、私を不快にするだけの、感情任せの支離滅裂な長文が送られてきた。

結局、その後も、私が彼女の意見に賛同するまでは、なんとかして私が「間違った考えを持った人」なのだと分からせようという攻撃らしきものは続いたので、私はもう知り合いではなくなることを決めた。

しかし、支離滅裂で論理的ではない、私を侮辱しているともとれる言葉が、時々頭によみがえった。

時間と労力の無駄だと思うのに、またよみがえってくる。さてどうしたものか・・。


 ◆ パラレルワールド -自分で住む世界を選ぶことができる― ◆

世界と世界の交わり

私は、急に気がついた。


彼女は、嘘をつく政治家の居る世界を選んだ。

そして、私は、そもそも政治家さえ存在していない世界を選んでいる。

私の選んだ世界と、他の人が選んだそれぞれの世界が交わる時がある。簡単に想像しやすい地球上の言葉を使うと「出逢い」だ。

そして、それがしっくりくると、交わった部分はそのままに、私は私の世界で生きている。

しかし、それがしっくりこないなら、それはもう別の世界(別の惑星と想像した方が簡単かもしれない)で生きている。

つまりは、私が彼女の不快な言葉を思い出して、あの時のやりとりに紋々とするという堂々巡りを続けていれば、私はやはり、嘘をつく政治家の居る彼女の選んだ世界に一緒に住んでいるのだ。

危ない!私たちが気を付けなければならないことは、他の世界を選択した人を自分の念頭に置くことは、つまり、その人の選択した世界に引きずりこまれるという事だ。

 

 ◆ 反対派と賛成派は同じ世界 -有か無かの視点― ◆

私は、政治や国家という統治に賛成でも反対でもない。

多くの人が誤解しているのは、反対(アンチ)は、それを改善しようとか、無くそうとしていると信じているが、反対するということは、既にその存在を認めている。

私は、そもそも、統治が存在してい無い世界を選んだので、政治家の誰かがおかしなことをしていようが、戦争を始めようが、それは他の人の選んだ世界で起こっている出来事であって、私の選んだ世界では存在していない。

自分が得ている情報を全部本当だと信じている人には、私の言う事を想像するのが難しいと思うかも知れない。

想像しやすいように説明すると、例えば、フェイスブックに架空の人物が無数に存在する。その架空の人からメッセージがやってくる。「私の遺産の1億円を受け取ってくれる人をさがしています」。プロフィールを見れば、名前は山田淑子。写真も一人の日本人であろうマダムが写っている。それでも、あなたは、これが架空の人物、つまり実在しない人だと確信する。それと同じように、それがどんなに大きな報道機関のニュースであっても、どんな情報も、それが架空であると考えることもできる。

 

さて、コロナ。

統治が、世界規模で、こうしろああしろと言ってくる。

私が言っているのは、私が統治を信じていないからと言って、統治が出す規則を無視するという事ではない。

もし、私の大切な人(同じ世界に住んでいたい)と思う人が、コロナで不安だから会いたくないといえば、それを受け入れる。マスクをつけていたいと言えば、一緒にマスクをつける。または、私がマスクをつけた方が良いと自分で信じれば、マスクをつけて人に会う。

私は、予防接種を受けた。それは、ただ単に、予防接種を受けなければ、国境を越えられなかったからだ。世界がやっと公演を始めたとき、私の歌を聴きたい人が、私の歌を聴けるために。

私の住んでいる世界で、私の大切な人たちが、私にそれが必要だという。ならば、それを受け入れる。私にとって大切なのは、今目の前にあるものだ。合理的に淡々と自分で自分に必要なものを選択してやるだけだ。

 

コロナが存在しているかどうか、統治に賛成か反対か・・・そんなことは私たちが基準にするべきことではない。

コロナが有ったとしても無かったとしても、統治が正しかったとしても正しくなかったとしても、自分自身が一緒に住みたい人たちと、同じ世界に居られる方法を私たちは選ぶべきだ

 

 ◆ お別れは、別の宇宙に生きるという事 -無限に「この世」は存在している― ◆

さて、議題は戻って、もう関わらないと決めたはずの人が、自分の念頭にまだ存在し、ストレスになるとき、

自分がどの世界を選んだか、しっかり確認し、自分が選んでいない世界に引きずり込まれないようにする

 

私たちは、引きずり込まれることを避けなければ、自分の選んだ世界に還れない事を一番恐れなければならない

 

その人はその人の選んだ世界に生きている。これは除外ではなく、その人の意思への敬意である。同じ世界に住もうとするから、ある意味での否定が生まれる。

その人は確かに生きている。別のどこかの世界で。でも、私の世界にはもう存在していない。

 

そもそもどうして私たちは、どうしても自分とは合わないはずの他人までもを理解する事の方が得が高い(寛容性がある)と思い込まされているのだろうか? わざわざ同じ世界に住んで議論して不快になることはない。自分の選んだ世界に私たちは、住める権利がある(というか、実はそれしかない)のだ。

 

 

 ◆ 最後に…子供たちの事 -子供たちは自覚ある宇宙人- ◆

協調性の無い子、わがままな子など存在しない。(大人も)
その子たちは、その子の選択する世界に純粋に生きている。

実は、私たちは全員、宇宙人として、一人で地球にやってきて、自分が選び続ける世界の真ん中にずっと一人で暮らしている。


だから、皆がこうするのに、それをしない子は自分勝手だと言って強制しようとするのは、自分が選んだ世界を生きろと子供に押し付けていることになる。

ただ、そんな選び続けた世界の真ん中で生きている私たちが学ばなければならないのは、他の世界の人と自分の世界が交わった時に、他の人の選んだ世界を一緒に経験してみることは、自分の選んだ世界を失うという事ではないという事。
つまり、他人の経験を一緒に経験してみても、自分のアイデンティティは失わない。

それが、地球の新米である子供に、地球のベテランである大人が教えられることだと、私は思う。

そうすれば、子供たちは、他人の個性を尊重しながら、自分の個性を以て生きることができる。